2020年1月29日水曜日

放置したら? こうなります・・・。

2014年中頃、涙腺偽腫瘍というやつに出くわした。
目がゴロゴロし始め、ものもらいかと思っていたがだんだんと腫れてきた。痛いわけではないが、腫れているので熱っぽく、次第に視界が邪魔されてくる。仕方なく職場近くの眼科へ行くと、「大きな病院へ行ってください」という。嫌なセリフだった。
 
こんなに明るく広くなかったけど
「放っておくとどうなります?」
「こうなります」

見せられた写真のようには、なりたくなかった。
いろいろ検査をし、投薬治療という手もあったようだが、結果的に外科手術を選ばざるを得なかった。

「よく切る決心をしましたね」
入院手続きを済ませ、病室で看護士が開口一番そんなことを言う。

ん?
切らずに済むという選択肢はなかったはずだ。外科手術に到った経緯は説明が面倒なのでしないが、もちろん皮膚に刃を入れたくはなかった。

執刀医は完治を宣言した。だが一カ月、二か月経っても瞼の近くが攣れた感じが治らない。六年経った今も治らない。その医師が担当した脳外科としての治療は終わったということで、瞼のハナシは皮膚科のハナシだという。二度と手術はごめんだ。

だがベッドで横たわっていた時、術後の傷より困ったのは腰痛だった。
(痛かった~。そっちかよ)


2020年1月25日土曜日

働け、前頭葉。


働け前頭葉。

不安、恐怖、怒りなどの「情動」と総称される気持ちが起きるときは「大脳辺縁系」が活発に動いているそうだ。これを制御するのが「前頭葉」とのこと。前頭葉がしっかり感情をコントロールできれば要らぬ恐怖や不安、心配に苛まれることもなくなるわけだ。

つまりあるストレスにさらされたとき、「ああ、イヤだな」「つらいな」と放置、逃避するのではなく、進んで対処していくこと。そうすることで、ストレスは「よいもの」として人間を成長させる栄養となるのです。

「どうでもいいことで悩まない技術」(柿木隆介著、文響社)にも書いてあった。
つべこべ言うなと。辛いこと、困ったこと、イヤなことすなわちストレス元を避けて通ることはできず、対峙する以外に道はないということだ。
アドラーも、仏教も異口同音だ。


自分、ずいぶんと逃げてきた。この書籍には、
l  幸せホルモンはセロトニンとオキシトシン
l  アンカリング。特定の言葉を繰返しつぶやくことで平常心を保つ。例:大丈夫、大丈夫、大丈夫、うまく行く
l  物事に対して理由や理屈、根拠をつけることは、人間のモチベーションを高める原動力になるのです
とも触れられている。

そうか。
仕事が終わって居酒屋へ寄るのは、「家に仕事を持ち帰らないための儀式のようなものである」という自分の理屈は確かにモチベーションを保つことができる。
そういうことじゃないのか。

また、「自分は自分、人は人」(和田秀樹著)では、
l  じっとしていればいるだけ、いろいろな不安や想像がまとわりついてきます。スタートさえ切ればすべて消えます。
l  すべての作業や課題は着手するまでが大きく見えるということです。
とある。

そうかもしれない。
着手したら「途方もなく巨大な問題」だったということもあるけどね。
黙れ、対峙するしかないのだ。取り掛かってみてから驚こう。

2020年1月18日土曜日

居酒屋の御年賀


居酒屋の御年賀

なじみの大衆酒場は混雑していた。
一人ならたいがいはカウンターの隅になんとか収まるのだが何といっても金曜日(110日)。座ろうとしたら「相席でもいいですか」と店の人。もちろんこっちはかまわない。
で、四人掛けテーブルに二人のオヤジが座ることに。常連なのだろうが、つまらなそうに煙をくゆらせている。とても話しかけようという気にはならない。大瓶発注とともに文庫本を開いたこっちをみて、相手オヤジも同じことを思ったことだろう。

発注が似ていた。煮物に刺身。ビールスタートの日本酒。もう少しにこやかにしていればひょっとして話は弾んだかもしれない。だがこの店は一人で来るのがいい。周囲のガヤガヤをBGMにしてボヤっとテレビを見たり、本を読んだり。話しかけられれば応じるし、無理に話しかけることはしない。


そんな一人でも楽しめる店を仕事始めの週に二件訪問。
勘定を済ませると、お年賀の手ぬぐいをいただいた。ひとつは「大衆酒場」もうひとつには「仲町名物」とある。どちらもけっこう通っているが正月明けすぐに行ったのは初めてなのでお年賀も初めて。ご常連の多くは名前を呼ばれているが、名乗ったことがないので呼ばれない。

「お客さ~ん」
大衆酒場は勘定が終わって店を出て歩いている時に追っかけてきて渡してくれた。今年はいい年になりそうだ。

2020年1月12日日曜日

ハッピーな死に方?


ハッピーな死に方とは果たして・・・?


全身麻酔がさめずに、そのまま起きることがなくてもいいと思った。

不謹慎かもしれないが、手術で初めて全身麻酔をして意識が戻ったとき、そう思った。事前説明があった。「薬が体内に入ると、(針がささっている)腕からずーんと温かくなってそのまま寝てしまいます」全くその通りだった。

「ハッピーエンドの選び方」というイスラエル映画では尊厳死を遂げられる「装置」を開発するハナシだった。https://www.asmik-ace.co.jp/lineup/1253 

だが現実には「泣きながら生まれてきた人間が笑いながら死んでいく」という最高の「ハッピーエンド」を選ぶことは困難だ。
高齢の母は「私はカマチョクでいいわよ」という。亡くなったらカマ(火葬場)直行、あちこちへの連絡不要、葬儀も不要だと笑って言っている。

それよりなにより、問題は死ぬときだ。永六輔は「痛いのは嫌だ、苦しいのはもっと嫌だ。辛いのも嫌だ」(『ご笑納ください』、高田文夫著)と、人間ドックから逃げ出したらしい。また樹木希林は「ガンで死ぬのが一番幸せ。畳の上で死ねるし、用意ができます。準備して片付けができるのが最高」(同)とのこと。自分は、病室での父の死の間際の形相を思い出すととても薬で延命など考えられない。それは拷問にも見えた。
人は自分で死に方を選べない。

さて母の希望はしかと承ったものの、葬儀屋を通さず、公共サービスのみで納骨までできるものだろうか。


2020年1月10日金曜日

アニバーサリー?はじめての心療内科から25年。


アニバーサリー?はじめての心療内科から25年。

2020年になった。

小学生のころ、自分が二十歳まで生きることはないだろうと結構真剣に思っていた。あまりに遠く、想像できなかったからだ。だからといって死んでしまうかもしれないと想像していたわけでもなかった。

いま、何のことはない、50代も後半になり、気分が沈んだの、鬱っぽいだの、ごたごた言いながら生活している。ある時期は自らせっせと医者に通い、調子が悪いことを一生懸命訴えていたがその時の不快が治ったことはなかった。

中学時のクラス仲間で医師がいる。彼は「日常生活に支障をきたすことになったら医者に行け」と言う。著しい困難があったと感じたからこそ、受診したのだが今思えば日本の医療費を押し上げるだけの無駄な行為だったと気づく。そう、その時はそうした判断ができないのだ。だからやはり、病なのだ。

はじめて心療内科へ通って25年になる。
「アニバーサリー」は楽しげな記念日と思いきや、英語では良いことも悪いことも「周年」をそう呼ぶらしい。

あるクリニックの待合室に「気は病から」と書いてあった。本家である「病は気から」というのは精神論、根性論という語感があるが、気は病から、には極めて説得力があると感じる。

自分にとって本当の巨大な波は2000年頃だったが、地味に少しずつ良くなっている。時間はかかるのだ。ゆっくり回復している。だから本当に死にそうな頃にはうつの「う」の字もなくなっているだろう。いいね。

気にかかること、嫌なこと、したくないこと、これから訪れる(であろう)不安。全てから逃れたいがそれは不可能であることもよく分かった。大人になった。
(ジジィがいまさら何をいっているんだ)

「黒い犬」を飼い慣らし始めている。そんな風に思える。
I had a black dog, his name was depression.
World Health Organization (WHO)



2020年1月4日土曜日

年賀状をやめた!


年賀状をやめた。

やめてメールにした。どうしても・・・の大先輩や年賀状をやり取りすることに意義を感じる人とは継続。ちょっと緩い断捨離だ。そういう幅はあっていい。やめると言ったら100%やめる、では疲れる。(という言い訳)
 
年賀はがきは10枚以下に
【やめてわかったこと】
年賀はがき代+印刷代が浮いた。(せこい)
年末ギリギリまで制作を延ばせる。(ぐうたら)
写真をぶち込めば何とかなる。(ずぼら)

何も突然やめたわけではない。昨年の年賀状でメールにするという予告を送り、今年から移行。周到な準備の上での実行である。

メールを送ったらデザイナーの方からの返信で「綺麗なデザインの年賀状ですね。この手法なかなか良いですね。さすが長年XXXにお勤めの人ですね」とお褒めの言葉をもらった。素直にうれしい。デザイナーから言われたというのがいい。それほど凝ったわけではなかったが楽しみながら作ったことが伝わったのかもしれない。

そんな「メール賀状」だが、これをBCCで送ったのでは印刷年賀状と変わらない。
結局メール本文に一人ひとり挨拶やら近況を記していくという手間は同じだった。よって、次回はもう少し早めに作り出さねば、と思った次第。

結局、手間は同じか?


2020年1月3日金曜日

三年日記、七年目に突入!


三年日記が三冊目に突入した。

以前カウンセラーの方に勧めていただいたジャーナリング。三年日記という形で丸六年が終わった。2017-2019版は二冊目だった。黒い表紙が少し重たく感じられたので2020年からの一冊はブラウンの表紙のものに替えてみた。一日分たった5㎝×6㎝のスペースに記していくのは当初たやすいことだと考えていたがとんでもなかった。
三冊目に突入したが・・・

一行どころか一文字も書けない日は結構な頻度で起こった。そもそも心が萎えた日々を送りながら、何を書けというのか。でもまあ何とか「埋めて」きた。
本棚の端にだるい感じで斜めに収まっていた一冊目の11日(2014年)を開いてみた。

31日より実家
●●神社初詣
夕方、兄弟たちと正月

ひどいね。
小学生の三文作文にすらなっていない。その日のスペースいっぱいに書き始めたのは17日以降だった。いや、欄を埋めたに過ぎない。だがこれを続けてきた。継続は力なり。

はて、何の力になったのだろう。空白を作らない、何かを感じるようにする、手先を動かし続ける、書くためのネタを考え続ける、心情吐露の場を作る?人に見せないのに?

まあいい。
これまで一日の空白もなく続けてきたこと自体にちょっとした充足感がある。「人は生きている、ただそれだけで大きな価値があるのだ」(「大河の一滴」五木寛之著)にわずかながらプラスアルファの活動ができたと思うことにする。

偉そうなことを書いたところで、一日の空白を見つけた。入院して手術を受けた日だった。これはしかたないか。その後、この日の欄を埋める気にはなれなかった。

1丁目のバーガーキング

前回ハンバーガーを食べたのは、 2019 年 2 月、サンディエゴの Burger Lounge だ。滅多に食べないこと、そして滅多に行かないアメリカで食べたのでよく覚えている。彼の地に住む中学時代の同級生が連れていってくれた。アメリカーンな美味しいものだった。 最寄り駅にバーガ...