2021年2月25日木曜日

一家に一枚 The Nightfly / Donald Fagen

今のマンションに引っ越す際、CDは捨てに捨てた(捨てさせられた)が、手元に残っているのは220枚と少し。その中から「The Night Fly」を聞いてみる。スティーリー・ダンの後、ソロアルバムとして1982年に発売された。この年は浪人して代ゼミに通っていた頃だ。このCD、それから一体どれだけ聞いたことだろう。

一家に一枚


都会的でカッコいいサウンドだと感じた。

社会人になってからも、出張に行く時には必ず持って行った。飛行機でも、滞在先のホテルでもCD Walkmanで聞いていた。当時空港免税店でやたらみかけた、プラダ。興味はまるでなかったが、ふらりと立ち寄った際、CDケースを見つけ、即購入。プラダがなぜCDケースか、などとは考えなかった。「しるし」がついていればその頃は何でもよかったのだ。

 

さらに時は流れ、2005年頃か、仕事でかかわったあるプロモーションで都内のホテルのスイートルームをインタビュー部屋として使った時のこと。事前に部屋内のセッティングなどについてホテル関係者と打合せをした。BGMはいるか、などの詳細に及んだ際、ホテルスタッフが持参したCDNightflyだった。同じくらいの年代だったであろうその人は、「一家に一枚Nightflyですよね」。

 

スティーリー・ダンとドナルド・フェイゲンの作品は年次が入り組んではいるが、アルバムはほぼ持っていると思っていた。ところが「私のレコードアルバム」(所有CDリスト)を見てみると、なんとメジャーなアルバムがないことに気づいた。幻想の摩天楼やガウチョはレコードだったのだ!いまや、youtubeでもアマゾンミュージックでもSpotifyでもすぐに聞けるのだろうが、世代的にやはり「持っていたい」と言う欲があるのだ。何の意味があるのかと問われそうだが、所有ということに意味を見出してしまう世代なのだ。

封を切るのはこれから


アマゾン、楽天で見比べると今回のCD買いについては前者に軍配。今さらながら「 Can't Buy A Thrill (1972)、「 Countdown To Ecstasy (1973)、「Pretzel Logic (1974)、「 Katy Lied (1975)、「 Gaucho (1980)大人買い。学生の頃にはできなかった技だ。

 

狭いマンションでは、大きな音で聞けないというのがストレスだ。実家にはレコードもあるがこれらを聞く機会はもう無いだろう。

2021年2月21日日曜日

アート作品を背負った方々

緊急事態宣言は37日までの予定。解除すべし、いやいや、3度目になったら致命的だ、などコロナも意見も収束しない。賛否あるのは健全な議論であるし、実際のところ、解除してもしなくても、その結果が解除に起因するかどうか、本当の理由はどこまでいってもわからない。

 

会社には、もはや息抜きのために出社しているようなものだ。家で仕事は確かにできる。生来まじめ(?)な性分としては、ついつい仕事をし過ぎてしまう。境目がないからだ。自分の場合は、通勤時間が1時間以内ということもあり、それほど苦にはならなかった。むしろ家でずっと過ごしている(いや、仕事をしている)と、終日家から出ないこともあり、通勤時間はオンオフのいい切り替えだったのだと、今さらながらに思う。

寛容な心を持つ竹の湯


単調な日々を打破すべく、週末近所の銭湯へ行ってみた。年に数回行く程度だが、歩いて3分程度の至近なのだから、もっと足繁く通ってもいいのかもしれない。そんな「竹の湯」は湯が熱い。たいがいは42度を示している。家庭の風呂の42度とはまた違い、湯量の多い銭湯ではじんじん熱い。だが驚いたことに平成2年までは規定で42度以上でないといけなかったらしい。

https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/smph/kankyo/eisei/yokujyou/yokujyou_faq.html 浴槽水の温度の規定はありますか?(東京都福祉保健局HPより)

 

今日もそうだったが、子供は熱がって入らない。「あちー」と言って騒いでいるだけだ。その点親父たちは、すーはー言いながら満喫している。竹の湯は3時半に開く。いつも地元の善男善女数人が並んで待っている。近所の居酒屋のおばあちゃんも、1番風呂を浴びてから仕事に就くようだ。

 

そして、今日もやはり出会うのだ。背中に腕に、「アート作品」をお持ちの方に。若者が気軽にまとうそれとは明らかに一線を画した芸術作品だ。本日遭遇したのは1名。風呂では眼鏡を外しているので「作風」や、ご尊顔を拝することはない。その作品面積やがたいの違いからそういう方が複数人いることは間違いない。もちろん通り一遍の貼り紙はしてあるが、番台ではわからないし、脱衣所で見張っている者もいない。そう、寛容の心なのだ。

 

下町っぽくていいやね。

 

 

2021年2月20日土曜日

「あの頃」に戻ってはいけない

同僚が4カ月弱の休職から返ってきた。

少し瘦せていたが、元気そうだった。休み始める前と変わらない表情に見えた。来週からの復職を前に、リーダーと面接をしていたところに10分ほど同席した。またかんばっちゃうだろうな、などと想像しながら。この休職期間が十分だったかどうかは、本人にしかわからない。


うつを患った人は、「(うつになる前の元気な)あの頃に戻りたい」と口にするが、その頃に戻ればまた同じ道をたどることに気づいていない。あの頃に戻ってはいけないのだ。じゃあどこに戻ればよいのか。全く別の未知なるトコロへ行ってしまうと不安が増長してしまうので、複線のもう一方の、元居たところあたりがいいだろう。高速道路で言うなら、片側三車線のうち、事故に遭わなかった別の車線。

他の車線を行こう


その「事故現場」にもはや自分はいないが、事故の痕跡は残っている。ガラスの破片も全部は取り除かれていないだろう。ブレーキ跡もまだ残っているかもしれない。並行しながらも、別の車線を、線路を行こう。現場付近ではむしろ徐行し、それが過ぎれば法定速度で行ける。あとは車窓を楽しみながらゆっくり進む。

 

そのうち、アクセルを踏んでもスピードが出ないとか、ライトが片方点灯しないとか、ワイパーのゴムが知らぬ間にすり減っていたとか、エアコンの温度調整がおかしいとか、そんなことに必ず出会う。だがその時には修理方法を心得ている。どうしても直らなければ「ピットイン」すればいい。ゆっくり走らないとピットインのタイミングを逃してしまうのでここは要注意だ。

 

自分はトロトロ運転を再開した後、スピードは上がらないが窓を開けて外の空気を味わいながら走行している。これから何度ピットインしてもいいと思っている。

 

これでいいのだ。

2021年2月13日土曜日

抑えきれない衝動とは・・・

晩節を汚す


「今のそういうジェンダーレスの話を100%理解するのは年齢的にも難しいかなって」

 

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(83)が辞任した。長女がそう言っている。ただ、この記事の中で長女は、女性蔑視と言う気はなかったと思うと語っている。自分らにとっては、普通の父であり、そこいらのおじいちゃんと同じだと。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f892db53561e37bb805370241a180aede86c0829

2/12(金)NEWSポストセブン 

森喜朗氏の長女が告白「父が問題を理解するのは年齢的に難しい」

 

この年代なら、「何が行けなかったのか」というところだろう。男女雇用機会均等法が成立した1985年のあとに社会人となった自分ですら、女性に対して差別的な態度を取らないにしても、そんな見方が全くなかったとは言い切れない。だがすでに30年以上経ち、人々の意識は変わり、少なくとも日本以外ではさらに進んだ考えが一般的だ。一国の首相を務めた人の発言とあれば、さすがにまずい。発言を撤回し謝罪しても批判の声は止まず、辞任に至った。正に「晩節を汚す」結果となった。

 

高齢のドライバーが死亡事故を起こし、車の異常だと主張したり(官僚だったゆえ逮捕されなかったのが真実かはわからない)、定年退職直前の公務員がちかん行為をしたり盗撮で免職されたり。あまりに残念(アホともいう)としか言いようのない例は枚挙にいとまない。がまんならなかったんだろうね。

罪のない衝動


翻って自分にとって、コントロールできなくなる瞬間、抑えきれない衝動とは何だろう。

チューハイ2杯でがまんできず3杯目をおかわりする、トンカツの脂身は悪いとわかっていて、塩をふって食べてしまう。早起きしなくてはならないのに二度寝する。かなり小さい・・・。だが、ちかんをしたいかと問われれば、そうは思わないし、わざわざ盗撮しなくてもイマドキネットでおかしな画像はいくらでもある。

おかしな方向へ向かうのはごめんだが、全く欲がないというのも面白味に欠ける。

 

定年も伸びそうな昨今、会社員としての「晩節」も少し先になりそうだ。五木寛之サンのエッセイによれば、70代が「黄金時代」だという。その頃にどんな衝動にめぐりあうだろう。

 

 

 

 

2021年2月7日日曜日

憂鬱を無毒化する技

「憂鬱はそのまま苦しむと大変なので味わいながら無毒化する」

 

新聞だったか、本だったか。出典を書き留めるのを忘れた。何しろ新聞はバサバサ積んだまま、本も図書館から借りてはページを繰り、そのまま返してしまう。スマホにでもメモっておけばよかった。いずれにしても相当の「達人」の言葉であろうことは想像がつく。

 

まず、一般人は「そのまま苦しむ」のが普通だ。そう簡単にはやり過ごせないから苦労し、落ち込み、仕事を休まねばならないこともある。ひどい時には長期にわたって休む羽目にもなる。休みたいわけじゃないが、どうにもならない時はあるのだ。それはとてつもなく「大変」なことで、不安に押しつぶされ、もがきあがくことになる。

 

そんな状態を「味わいながら無毒化する」とは、いったいどんな術をもって成しうるのか。味わうのだから、いったんは体内に取り込むのだろう。液体か固体か。あまり硬い、噛みきれないようなイメージではない。スッとのどを通ってしまうものの、相当苦いに違いない。よほどの忍耐力、包容力、寛容の心がないと消化できない。「無毒化」するだけの解毒作用を持つ強靭な心身。

無毒化する時間は人によって大きく異なることだろう。

貯蔵タンク(朝日新聞デジタルより)


さて、モンダイは無毒化した後だ。「無毒化された憂鬱」なのだから放出してしまいたい。憂鬱など保管しておきたくないし、毒がないならそこらに撒かれても問題なかろう。それとも、首尾よく(或いは七転八倒して)撃退し、もう悪さをしないと分かった「奴」を蓄積して糧とするか。度量が試される。(まあでも無理しないことだな)

 

東京電力福島第一原発の敷地内にたまる処理済み汚染水は、貯蔵タンクがいっぱいになる2022年頃には反対を押し切って海洋放出されることだろう。こっちはだいぶ「薄まる」ものの、無毒化には遠い。したがって、放出してはいけない。

2021年2月6日土曜日

赤いヤドカリ

緊急事態宣言で会社にも飲みにも行かないと、家で料理をすることになる。外食に比べたら格段に安く済む。次第に肉も魚も「いいもの」を選び始めるようになる。単価は上がっていく。100グラム1000円の牛肉など普段は絶対に買わない。だが、100グラムしか食べなければ、1000円だ。同じことを外で食べれば5000円ほどか。

 

身の大きいあさりを家人が買ってきた。砂抜きを十分にして、ボンゴレを作ってみる。完全な我流だが、味はあさりに任せておけばよい。パスタを少し硬めに茹でておいて「ボンゴレ」(貝)の入った中華鍋に投入。パセリを散らして出来上がり。実にシンプルだ。一口、二口食べていたら、小さなカニがアサリの中から出てきた。別の貝からも。計2杯。(こんなミニカニでも杯なのだろうか)




珍客


1丁目のバーガーキング

前回ハンバーガーを食べたのは、 2019 年 2 月、サンディエゴの Burger Lounge だ。滅多に食べないこと、そして滅多に行かないアメリカで食べたのでよく覚えている。彼の地に住む中学時代の同級生が連れていってくれた。アメリカーンな美味しいものだった。 最寄り駅にバーガ...