以前読んだ、「東京百景」(又吉直樹著、角川文庫)に「昔のノート」という項がある。以下はその一部。
「死にたくなるほど苦しい夜には、これは次に楽しいことがある時までのフリなのだと信じるようにしている。のどが渇いている時の方が、たとえ一瞬だとしても、誰よりも重みのある幸福を感受できると信じている。その瞬間を逃さないために生きようと思う。得体のしれない化物に殺されてたまるかと思う。反対に、街角で待ち伏せして、追って来た化物を「ばぁ」と驚かせてやるのだ。そして、化物の背後にまわり、こちょこちょと脇をくすぐってやるのだ。」
びくつきながらも精一杯のハッタリで、くすぐろうとしているところに共感を覚える。
そう、押しつぶされそうな相手は、たいがい見えないものだ。得体のしれないものになぜそこまで恐怖を覚え、目の立ったおろし金で心をザリザリ削られなければならないのか。気がつけば自身もその得体のしれない側に回って自身を追い込んだりしている。
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こういう考えに立ってしまうのは質が悪い。そんな時、本来なら自分のことは、助けてやらないといけないのに、正反対のことをしてしまう。誰からも救われないタイヘンな自分。そうやっていじめてきたのだ。だからひねくれているのだ。だから素直でないのだ。だからぐるぐる思考で、くよくよ思考になるのだ。
脱、得体のしれない化物。脱、自分。
ん?
自分が得体のしれない化物だったのか。
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